柳楽優弥ファンブログ「ジェットコースターにのって」

柳楽優弥くんズキ。2021年Works「浅草キッド」「太陽の子」「ターコイズの空の下で」「HOKUSAI」「二月の勝者」CM:JRA

ネタバレ感想

本日2回観たので、ネタバレ感想まとめてみます。
原作とどう違うかもバリバリ書いているので、未見の方は観てから
お読みいただくことをおすすめします。




2回観て印象が変わったので、正直に書いてしまいますが、
実は1回目を観た時に、私の中では違和感が結構強かったのでした。

柳楽くんが出演するということがきっかけで知った「合葬」ですが、
原作を読み込むうちに思い入れができてしまい、どうしても
「原作と違う」という思いが大きくなってしまったのです。

原作をそのままなぞって欲しい訳ではないので、変えること自体に抵抗はないのですが、
「原作にあっても違和感ないだろうな」と思えるような世界観とキャラクターだけは
守って欲しくて。

特に、極と悌二朗。
極は原作の中では、もっともっと「ただただお上のために生きる」ことに
集中しているキャラクターでした。
それ以外のことには関心がないぐらい。
女遊びもそこまで描かれていないし、逆に映画ではカットになりましたが、
弟にお上を非難されるとバシバシ叩いたうえで「二度と会わぬ」っていうぐらい
ある種狂信的なまでの忠義心が前面に出ている、それが私の中の「極」でした。

明確な違いは、悌二朗に昼間から深川に行っていることを指摘された時。
原作では、極は恥じる表情をするんです。
それは多分、忠義心よりうつつを抜かしたことによるばつの悪さかと思うのですが、
映画では、それがどうしたっていう顔をするんです。
そうかー、そうなんだーと消化ができない感じがありました。

そして、悌二朗。
最後まで穏健派にも関わらず「帰るに帰れない」という差し迫った状況になってしまい
戦わざるを得なくなった…というところが、1つの悲劇だったと思っていたので、
自ら戦うことを選択した時には「え?そこを変えるの?!」とびっくりしました。

が。
二度目は一旦原作を忘れて、初めてこの物語を観る、という立場で観てみたところ、
風景が大分変ってみえたのです。

ネタバレなしでも書いたように、3次元の実写に際し「肉質感」を加えた時、
やっぱり漫画の極では少し現実感が足りないんだろうと思います。
17歳。
パンフレットで小林監督が「文献を読むと『モテるから彰義隊に入った』みたいな
記述もあるんです(笑)」と言っているように、お上が大切とはいえ、
やっぱり10代ならではの遊びたい盛りがあった方が「幕末青春物語」としては
リアリティがあるんだろうなと腑に落ちました。
女遊びも上手く、モテて、少し強引で…という極のキャラクターを追加することによって
現代に通ずるキャラクターにしたかったのでは、という気もしました。
監督からも脚本家からも言われた「カリスマ性」というのは、単に剣が上手いとか
そういうことではなく、「高校のクラスで一番モテるヤツ」みたいなことだったんだろうなと。


そして、悌二朗についても、改めて見ると、原作より「森さんへの尊敬」が強く
描かれているんですよね。森さんに共鳴してうっかり彰義隊に入り、
亡くなったことに涙を流して、それを機に彰義隊と決別をした。
そう考えると、おそらく悌二朗は巻き込まれたと知った瞬間、
森さんの代わりになろうと思ったのでは、という気がしたのです。
森さんは最後まで現場に残って、戦おうとする隊士をせめて
「犬死ではなく立派に戦わせよう」としていた訳で、それをあの土壇場で引き受ける決意をした。
そう考えると、あの時武器を準備する側ではなく、あくまでも「急げ!」と指示する側、
鼓舞する側にまわっていたことも納得がいきました。

ということで、2回目は原作を置いておいて観たら、しみじみといい映画と
思えましたし、何より泣けました。

これも原作にはないエピソードですが、柾之助はかなから預かった肌守りを
(手紙は原作通り破り捨てましたが)極に渡そうとします。
それを極は「そんなものは要らぬ」(ちょっとセリフは違ったかもうろ覚え)と
即座に断ります。

これが後に2つの伏線となっているんだと改めて気づきました。
(1回目に気付かない私…)

1つは、柾之助はそれをそのまま持っていて、最後極の墓に供えたというシーン。
つまりは、柾之助が肌守りを持っていたから3人のうち彼だけ助かったのでは、
とも言えるし、柾之助もこれを極が身に着けていたら…と考えてしまっただろうと
思うのです。だからこそ、遅きに失したとはいえ、墓前に置いたのかなと。

そしてもう1つは、極が最後まで写真を持っていたとわかるシーン。
肌守りはいらないとあれだけキッパリ断っていた極が、最後の最後まで
身に着けていたのがあの写真なんだとわかった瞬間に、
彼にとっての「肌守り」はあの写真館でもう「できていた」ことがわかって、
泣けました。

ちなみに1回目観た時から好きだったオリジナルの部分は、
かなが極の「どけ!」を聞き間違いか、記憶違いをしていた…という部分、
原作では柾之助が頭の中で「違うのでは?」となるのを、上手く会話の中で
処理していたところです。こういう「テキストor2次元だから済んでしまうところ」を
実写で上手くできていると、心の中で小さく拍手をしてしまいますw

話はさらに飛びますが、ラストの砂世と極のラストを「あれも極の夢枕と同じで幻」
と解釈している人がいて「そういう見方もあるのかー」と思って、今回その辺りも
気を付けつつ観たのですが、ちゃんと満月の日が一致しているし、
笛の音で立ち止まる極の表情から、あの後に行ってもおかしくないと思える流れになってました。
このエピは原作の極でもありえると言えばありえるかなと思ったので
(本音かどうかはともかく最初は「すぐ帰る」と言っていたし)、
原作の極も一瞬でもこういう幸せな時間があったらよかったなと思えました。


最後に。
賛否両論の音楽ですが、私もどうかな、ぎりぎりかなーという感じでしたが、
昨日紹介した杉浦日向子ムックの小林監督のエッセイを読んで目からウロコでした。
「(杉浦さんは)音楽好きで、仕事場では常時ライ・クーダーキンクスの音楽が
鳴っていたということを兄・鈴木雅也さんからお聞きしてそう思った
と書いてあったのです。
これこそ、パンフレットに書いておけばよかったのではないかと。
杉浦さん自身が洋楽をBGMに江戸を描いていたとなれば、それはむしろ
生前の杉浦さんの世界を再現したということですもんね。
それを知っていると大分受け取りようが違うと思います。
(もちろん、映画は映画のみで評価されるべきとは思いますが)
それ以外の音楽は過剰に入れてなくてむしろ好きでした。

キャラクターのオリジナル性の解釈と、肌守りの縦糸が見えたことによって、
映画単体としての「合葬」のおもしろさにようやく気付けた気がします。
そう考えると、肌守りにしても、砂世との逢瀬にしても、知ってから観た2回目の方が
おもしろいと思います。何度も観るとじわじわとくるスルメ系映画なのかもしれません。

柳楽くんが時代劇にハマることは、信行と極で十分証明されたので、
今度はなるべく…切腹のない役がいいかな…って戦国武将はかなりの確率で切腹か(笑)